腹ごしらえして進むのだ

 10月のとある日、いつもより早起きして前日のテレワークのお陰でテーブルに出しっ放しになっているPCとノートをカバンに詰め込んだ。

 普段は8時までぐっすりな自分がなぜ早起きしているかというと今日は大阪府の真下に位置する和歌山県にて、用事があるからである。

 用意が早めに終わり、余った時間で寛ぐのも程々にして家を出る。今日は晴れ。

 

 本日同行するのは栗河先生。7月に配属された自分にマンツーマンで仕事を教えてくれるいわば教育係であり、実際の仕事中もホントに「栗河先生」と呼んでいる。

 栗河先生はぽっちゃり体型の優しそうな顔をしたオッサンでイメージとしては眼鏡をかけてなくて黒髪のサンドウィッチマン伊達である。

 

 そんな栗河先生と大阪駅で合流したのち、早速和歌山に向かう電車に乗る。乗った直後、栗河先生の電話が鳴った。怪訝そうな顔をしつつ電話を終えた栗河先生は自分に向かって一言。

「うつ君、今日の予定が後ろ倒しになったので事務所に戻りましょうか」

 どうやら先方の仕事の都合で朝からあった予定が後ろ倒しになったらしい。早起きした意味が一瞬で爆散。ため息混じりに「ハイ…」と答えつつ電車を降り、歩いて数分の事務所に向かう。

 

 事務所に着くと、部内のメンバー達は朝礼であった。「アレ?!なんで帰ってきたの?!」との質問をのらりくらりとかわしながら、事務作業を済ませた。

 結局12時過ぎの電車で和歌山に向かうことになったので、前日時間がなくて取り組めなかった業務を再開する。

 どんな業務かというと、ある会社Aと自社が取引する為の社内申請であり、この申請が承認される事によって、初めて自社の商材を会社Aに利用してもらう事が可能になる。

 本案件にはタイムリミットがあり、申請の承認が遅れる事はすなわち取引が丸々遅れてしまう事を意味する。(フラグ)

 

 そんな案件を栗河先生に押し付けられたので、とりあえず出発までは取り組んでいた。

 さあ後は申請するだけ!というところでお昼時になったので、出発前に駅ビルで栗河先生と森下教授(※1)とランチする事に。

 

※1 飄々としてイタズラ好きなおじさん。物知りなので勝手に「森下教授」と呼んでいたらみんなからも呼ばれる様になっていた。

 

 そんなわけでランチとは名ばかりの昼飯を食べに行った一行。駅前第一ビルB2Fに位置する定食屋にて腹ごしらえを済ませた後、栗河先生と和歌山に向けて出発。

 行きの車内では満腹ということもあり、爆睡。和歌山まで2時間弱の道中は一瞬で過ぎていった。

 先方の最寄駅に着いたのち、秋晴れの陽気の中を自分と栗河先生は他愛のない会話をしながら徒歩30分程の道のりを歩いていく。しかしまぁこんなにポカポカだとお互いに気が緩みまくり栗河先生の娘の話だとか、自分の新居についての話だとか業務には全く関係のない話が弾み過ぎて気がつくと我々は喫茶店に入っていた。

 

 栗河先生はよくサボる人で何かと喫茶店に入りたがる。まぁPCを開いて仕事をしつつコーヒーを飲みながらくだらない話をしているのだが今回に至ってはもはやPCすら開かず喋り続けた。

 

 取引先との約束の時間が迫ってきたのでバカ話も程々に店を出て、取引先に向かう。

 栗河先生が取引先と話をしている最中、隣でカタカタと今朝用意した申請を済ませ、のんびりしていると数分後、自分宛に一本の電話が飛んできた。

「うつ君、さっき出してくれた申請間違ってるよ!」

 森下教授からである。そこそこ焦った様子で飛んできた電話は自分にとって地獄以外の何者でもなく、手足がブルブルと震え出した。

 前述した通り、本申請が遅れるということは取引が丸々遅れるという事であり自身のせいでそんな事になってしまうとは微塵も思わなかった。

 

 「とりあえず俺が何とかするから次からは気をつけて!切り替えていきましょう。じゃあね~」

 

 自分の不甲斐なさ、注意力の無さに辛くなる。こんな事態は新入社員でもなかったら怒鳴り散らすであろう事態なのに森下教授は優しく声を掛けてくれた。その優しさにまた辛くなる。

 

 結局その後の取引については全く頭に入らないまま午後18時を迎える。秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので取引が終わった頃、外は真っ暗だった。

 自分がミスをして取引自体が遅れるかもしれないという連絡は勿論栗河先生の耳にも入っており、慰められながら真っ暗な帰り道をまた栗河先生と歩く。

 どうしてもお腹が空いたという栗河先生の要望で道中に一つだけポツンと佇むコンビニに立ち寄る。外で待っていると栗河先生が缶ビールを2本持ち、店から出てきた。2本のうちの1本を自分に差し出す。

 

「すいませんが私は呑みますよ、うつ君もどうですか。」

 

 どうしてもお腹が空いたと言っていた栗河先生の手にはおにぎりの一つも無く、ただ缶ビールだけを持っていた。

 

「さあ呑んで話でもしながら帰りましょうか」

 

 普通ならここでカッコいい格言を言うところだがまさかこんなにラフだとは思ってもみなかったので、特に言葉を返すわけでもなくキョトンとしてしまった。

 

 そこからの帰り道の事はあまり覚えていない、なぜなら大失敗によって非日常となるはずだった今日一日は栗河先生の一言二言で一気に日常に戻ってしまったからである。

 なんでもない日常というものは余程意識しなければ思い返すことは難しい。ただ自分はこの日を忘れたくないし何十年しても思い返したいと思った。

 そんなわけで本稿を備忘録として残そうと思ったわけである。